この誕生日がすごい!【2月20日】志村、猪木、長嶋。スーパーヒーローが7年おきに爆誕

誰もが憧れた昭和を代表する3大ヒーロー

スポンサーリンク

ちょうど7年おきにスーパースターが誕生

ザ・ドリフターズの志村けん、燃える闘魂・アントニオ猪木、そしてミスタープロ野球・長嶋茂雄

彼らはまさしく昭和の時代に輝いたスーパースターであり、日本中にその名を知られています。そして、この3人には、あまり知られていませんが、驚くべき偶然があります。

その驚くべき偶然とは、このスーパースター3人全員が同じ誕生日、つまり2月20日に生まれたということ。さらにその年の差が、ちょうど7年おきという驚愕の事実。

さて、彼らの物語を紐解いてみましょう。

志村けん(1950年2月20日生まれ)

志村けんは、現在の東京都東村山市に生まれました。幼少期から人を笑わせることが大好きで、高校卒業間際に、いかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願。付き人からザ・ドリフターズの「メンバー見習い」となりました。

荒井注に代わってザ・ドリフターズの正式メンバーとなってからは、テレビ番組『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』で一躍、お茶の間の人気者となりました。

その後も、『志村けんのだいじょうぶだぁ』『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『志村けんのバカ殿様』『天才!志村どうぶつ園』などで親しまれ、そのユーモアとあたたかい人柄で多くの人々に愛されました。

志村けんの名作ギャグとして、「東村山音頭」「カラス、なぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」「ヒゲダンス」「バカ殿様」「アイ~ン」「だいじょうぶだぁ」など、数々のフレーズは、今でも多くの人々に親しまれています。

アントニオ猪木(1943年2月20日生まれ)

志村けんの誕生からさかのぼること、ぴったり7年。のちにアントニオ猪木となる、猪木 寛至は、神奈川県横浜市鶴見区生麦で生まれました。

猪木は、少年時代をブラジルで過ごしました。彼はブラジルで農作業や荷車引きなどの過酷な労働を経験しました。

そして1960年、興行でブラジルを訪れた力道山によってプロレスラーとしての素質を見いだされ、スカウトされて日本に帰国し、日本プロレスに入団しました。

その後、独立して新日本プロレスを立ち上げ、「燃える闘魂」をキャッチフレーズに観客を魅了しました。得意技のナックルアロー、コブラツイスト、卍固め、延髄斬りは、多くのプロレスファンを熱狂させました。

猪木の最も有名な試合の一つは、1976年に行われた「猪木対モハメド・アリ」の異種格闘技戦です。この試合は、プロレスとボクシングの世界が交差する歴史的瞬間であり、多くの人々の注目を浴びました。大きな見せ場のないままフルタイムドローとなった試合内容は、当時こそ「世紀の大凡戦」と酷評されましたが、平成以降の総合格闘技ファンからは再評価の声が多く上がっています。

また、猪木は政治家としても活躍しています。参議院議員を2期務め、スポーツ平和党代表、次世代の党国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気にする会最高顧問などを歴任しました。

1990年の湾岸戦争によって生じた日本人の人質をイラクから電撃救出したことでも知られています。

長嶋茂雄(1936年2月20日生まれ)

そしてアントニオ猪木の誕生からさかのぼること、ぴったり7年。

長嶋茂雄は、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市)で生まれ、千葉県立佐倉第一高等学校で野球を始めました。東京六大学野球(立教大学)ではホームラン記録を更新するなど大活躍を経て、まさに人気絶頂のまま巨人と契約しました。

1957年12月、読売ジャイアンツに入団しました。背番号は「3」で、契約金は推定1800万円でした。翌1958年4月5日、長嶋は巨人の開幕戦である対国鉄戦でデビューしました。相手エースの金田正一投手に対して4打数4三振という厳しい結果でした。

さらに翌年、1959年の天覧試合では、長嶋は劇的なサヨナラホームランを放ち、鮮烈な印象を残しました。同時代に活躍した王貞治とともに「ON砲」として称され、2人のバッティングは巨人のV9に貢献しました。

長嶋茂雄は「ミスタープロ野球」「ミスタージャイアンツ」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」などと呼ばれました。

また、球場内での躍動とともに、「いわゆるひとつの~」など、チャーミングな言動も長嶋の人気の秘密でした。

毎年シーズン前のキャンプ中に迎えた自身の誕生日についても、「いつもこの時期なんだよね~」というコメントが残されています。

ちなみに、60歳の還暦のお誕生日のコメントもふるっています。「初めての還暦、ましてや今年は年男ということで・・・」

記録の面でも、日本のプロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初でした。NPB最多記録となる最多安打を10回獲得し、セ・リーグ最多記録となる首位打者を6回獲得しました。「巨人の4番」としての出場試合数では、歴代2位(川上哲治に次ぐ)となっています。

2013年に国民栄誉賞を受賞し、2021年にはプロ野球界初となる文化勲章を受章しました。現在は読売巨人軍の専務取締役終身名誉監督に就任しています。

スポンサーリンク

国民の休日にすべきだった!?

昭和の時代の少年たちにとって、ザ・ドリフターズの志村けん、燃える闘魂・アントニオ猪木、そしてミスタープロ野球・長嶋茂雄の3人は、まぎれもなく大ヒーローです。同時代に生きた人々は、誰もが彼らの強烈な輝きに憧れ、熱狂し、とくに男の子ならマネして遊んだ経験があるはず。

そんな3人が同じ2月20日生まれとは、まったく、なんという偶然でしょう。

しかも、東京、神奈川、千葉で、ちょうど7年ごとに3人の誕生日が続いているという事実! 2月20日という日は、ぴったり7年おきに、時代を象徴するような大スターを世に送り出したのです。

昭和の日本の政治家たちは、この日を「国民の休日」に制定すべきだったのではないか、なぜ市民運動が起きなかったのか、今となっては残念でなりません。