「知の巨人」がイタリアと日本に生まれた
天才はいつも常人の理解を超えていく
イタリアと日本に生まれた「知の巨人」、レオナルド・ダ・ヴィンチと南方熊楠。
一つのジャンルにとどまらない天才的な頭脳を持つ二人は、ともに4月15日に生まれました。ちなみにこの日は、西洋では古代ローマの建国記念日や、キリスト教の聖人フィリップの祝日としても知られています。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年にイタリアのトスカーナ地方のヴィンチ村で生まれました。
父は公証人で、母は農家の娘でした。幼少期は十分な学校教育を受けられず、独学で勉強しました。14歳のころ、フィレンツェの画家ヴェロッキオに弟子入りし、芸術家としての才能を磨きました。その後はミラノ、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に招かれてフランスで過ごしました。
ダ・ヴィンチは画家としてだけでなく、建築家、発明家、工学者、解剖学者、天文学者などとしても優れた業績を残しました。代表作としては、絵画の「モナ・リザ」や「最後の晩餐」、ドローイングの「ウィトルウィウス的人体図」などがあります。
また、人体解剖に強い興味を持っており、死体を解剖してスケッチを描いたり、妊婦の死体を解剖して胎児の成長過程を調べたりしました。これは当時の教会の教えに反する行為であり、彼は秘密裏に行っていたとされています。
ダ・ヴィンチは、完全主義者としても知られています。彼は、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣がありました。また、新しい技法の実験に時間をかけたり、満足しなければ自身の作品の売却を拒否したり、自ら破棄してしまったりしたため、現存するダ・ヴィンチの絵画作品は15点程度と言われています。
ダ・ヴィンチは「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えていました。史上最高の画家の一人と評されるとともに、人類史上で最も多才との呼び声も高い人物です。
日本が生んだ知の巨人、南方熊楠
一方、南方熊楠は、1867年に和歌山県の和歌山城下橋丁で生まれました。
父は金物商で、母は農家の娘でした。幼少期は反古紙に書かれた絵や文字を貪り読んで成長したそうです。学問に興味を持ったのも幼年期からで、寺子屋や漢学塾、心学塾にも通いました。
1876年からは『和漢三才図会』などの書籍を筆写し始め、自らの教科書を作りました。1883年に和歌山中学校を卒業し上京し、東京大学の予備校に通いましたが、病気のために中退しました。
1886年、南方熊楠は和歌山から横浜を経て船でアメリカに渡りました。当時の船旅は、長期間にわたる海上での暮らしに耐えなければならず、きわめて過酷な環境でした。
また、留学先の国では、言語や文化の違いにも直面しました。熊楠は、アメリカで商業学校や農学校に入学しましたが、いずれも長続きせず、退学後は独学で植物学や博物学を学んでいます。
その後、フロリダやキューバなどの西インド諸島を旅行し、珍しい植物や動物を採集しました。1892年には、イギリスに渡り、大英博物館で研究を進めました。熊楠は、多くの言語に精通し、古今東西の文献を渉猟しました。
しかし、日本との連絡は不便で、家族や友人との交流は限られていました。南方熊楠は、約14年間の海外生活で、多くの困難や危険にも直面しましたが、その中で卓越した学問的成果を残しました。熊楠の留学は、当時の日本人にとっては非常に稀なことであり、また、留学の枠を超えた自由な海外生活であったと言えるでしょう。
帰国した後は和歌山県田辺市に居住し、民俗学者の柳田國男らと交流しながら、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じました。民俗学者としては『十二支考』『南方随筆』などの著作が残されています。
南方熊楠は博物学者、生物学者としては粘菌の研究で知られており、数々の新しい種や属を発見しています。
とくに英国留学期以降は、英語による論文を多数発表しています。その中でも、最も権威のある科学雑誌といえるのは『ネイチャー』です。南方熊楠は、1893年から1940年までに、『ネイチャー』に51本の論文を掲載しました。これは、単著での掲載本数の歴代最高記録となっています。
それらの論文は、植物学、博物学、民俗学、人類学などの分野にわたっており、その博識と独創性が評価されています。南方熊楠の英文論文の全訳と解説は、『南方熊楠英文論考「ネイチャー」誌篇』という書籍にまとめられています。
南方熊楠は言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残しています。柳田國男からは「日本人の可能性の極限」と称されました。
まとめ ダ・ヴィンチと熊楠の共通点とは?
レオナルド・ダ・ヴィンチと南方熊楠は、ともに4月15日生まれという共通点のほかにも、以下のような類似点が見られます。
- 父は公証人や金物商といった社会的地位の高い職業で、母は農家の娘という出自である。
- 幼少期は十分な学校教育を受けられなかったが、独学で多くの知識を身につけた。
- 自分の研究や作品に並々ならぬこだわりがあった。
- 多くの言語に精通し、古今東西の文献を渉猟した。
- 常識にとらわれない言動や性格、破天荒な生活ぶりから、没後も奇人変人として逸話を残した。
レオナルド・ダ・ヴィンチと南方熊楠は、それぞれの時代と地域で多才な活躍をし、後世に大きな影響を与えた天才と言えるでしょう。